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栄華の夢 -Eiga no yume-

 浮世は夢の 夢ならぬ夢
小笠原長行
文政五年五月十一日(1822.6.29)-1891(明治24年).1.22

夢よ夢 夢てふ夢は 夢の夢
浮世は夢の 夢ならぬ夢



幕幕末の老中 小笠原長行


 肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として唐津城にて出生。幼少期から学才に富み、儒学者・朝川善庵らに学ぶ。
 父・長昌が早世したため小笠原家は他家から藩主を取っていたが、安政四(1857)年九月に唐津藩主・長国(松本藩主・松平光庸の次男)の養子になり、安政五(1858)年以降、藩政にあたる。 海防に努めるなど藩政に功績をあげたことから文久二(1862)年、幕政に招かれ、奏者番、若年寄、老中格、外国御用取扱職を歴任。
 文久三(1863)年には外国御用掛として独断で生麦事件の償金支払いを決め、その弁明ならびに尊攘派を阻むべく挙兵し上洛を試みるも阻まれ免職。翌元治元(1864)年九月には謹慎を解かれ、その一年後の慶応元年(1865)年九月に再び老中格、十月には老中に就任。
 慶応二(1866)年、第二次幕長戦争では第2代フランス大使・レオン・ロッシュ(Léon Roche)に軍備面での援助を取り付け、自身も九州方面監軍司令官として指揮を執るも、敗戦と将軍・徳川家茂死去の報を受け小倉落城と共に江戸へ帰ったことから十月に老中職を免職、遍塞とされるも翌月に復職。十二月には外国御用取扱となり翌慶応三(1867)年からは外国事務総裁も兼任し兵庫開港問題に尽力。
 幕府瓦解後の明治元(1868)年正月に外国事務総裁職を解かれ、二月には老中職を辞し、また唐津藩世子の地位も棄て奥羽越列藩同盟に参加し、参謀を務める。その後、旧幕府軍に合流し榎本武明らと共に五稜郭へ赴き新政府軍に抵抗するも、戊辰戦争最末期・函館戦争の最中に函館を逃れ帰京、潜伏生活に入る。明治五(1872)年に公に姿を現すも、以降は表に出ることなく明治二十四(1891)年死去。



参照:

  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、 1981年
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、1994年
  • 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
  • 『日本人名大辞典』講談社、2001年

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